どうもこんにちはMENS GAMAZINEの管理人です。
さて今回は、夏休みの宿題シリーズの第・・・何弾か忘れましたが「命の大切さ作文」の書き方について考えて行きたい。
重いテーマであり、私にとっては、とても難しいテーマに感じます。
というのも、命が大切か否かについて、私は30数年生きてきて特に考えたことがないからです。
そりゃ、大切だろう、と。考える必要もない。
その理由は簡単で、与えられたものだからだ。
自分が命を落とせば、親や友人が涙を流す。
他人の命を奪ってしまっては、その人間の周りが涙を流す。
自分だけの問題ではない以上、責任を持って与えられた命を最大限燃やして、最後までまっとうしなければならないと考えている。
非常にシンプルです。だから原稿用紙5枚も書けない。だから難しい。
イジメ問題の場合は自分の中に「書くこと」はあったので、原稿用紙5枚程度なら、すぐに埋まる感覚があった。
命の大切さについては、そもそも書くことがない。
命の大切さの作文
2枚以上も書けへんしそんなに書くことある?←
— 佐山 あかり (@akapple_realv) 2014年8月11日
書けない人の気持ちが今回は手に取るように分かる。
イジメ問題の際は、文章が書けなかった学生時代の自分を思い出して、ギャップを埋めていたが、今回のテーマは、現在の私も書けないのだ。
その中でどのようにして、原稿用紙5枚を埋めようか・・・その答えを以下に示すので、命の大切さ作文が書けない若者たちは、参考にして欲しい。
命の大切さ作文について
私はまず、こう主張します。
「命の大切さ」を認識しているかどうかは、さして重要なことではありませんと。
そんなことよりも、学校や社会で生じている「命」の問題は、自殺と殺人です。
自殺者の数は、平成19年以降、減少傾向にあるとは言え、まだまだ多い(800人を超えている)。
動機はこんな感じ。
この中で驚きなのは、家族からのしつけ・叱責のパーセンテージの高さと、学業不振で命を落とす子供の多さである。
命の大切さとか言う、そんな抽象的な概念を持ち出すよりも、子供に自由を与えて伸び伸びと育てようと訴えた方が、自殺者の数は減りそうに見える。
当然ながら、学業不振で目の前が真っ暗で、生きてられない程に追いつめられる子供に「命の大切さ」なんてものを説いた所で響かない。
そんなものは、今関係ないからだ。
なんとか学力を伸ばしたいのだが伸びない苦悩は、両親からの圧力なり、周囲に対する自意識などでどんどん増幅していく。
本来そこまで大切ではないことにとらわれて、狭く小さな世界で生きてる子供にとって、その瞬間、学力だけが生きる価値になってしまっている。
だから響かない。命の大切さ?なんだそれは?今それどこじゃない。
まずは教えてあげるべきじゃないか?
人には向き不向きがある。
誰もが勉強すれば、学力が上がるわけじゃない。当たり前じゃないか。
みんなが一生懸命走る努力をすれば、全員が100メートルを10秒台で走れるか?
また教えてやろうよ。ペーパーテストで測られる結果など、人間のほんの一側面の指標にしかならないという事実を。
命の大切さ??順序が違うと思う。
まずは背負ってる重荷を外してやり、生きる自由を教えてヤラなければダメだろう。
そういう子供と追い込んでる両親に(親に自覚があるのか無自覚かは知らんが)。
命が大切と言うのなら、こんなつまらない理由で自ら命を絶っている子供を救わなければあかんき。
大河ドラマ龍馬伝で、龍馬の父が死に際に言った台詞は今も印象的に残っている。
『この世に生まれたからには、己の命を使い切らんといかん。使い切って…生涯を終えるがじゃ。』
学校の勉強が上手くいかなくて命を絶つことは、人生を一本のロウソクに例えると、まだ、火も灯ってない段階に見えて、悲しくなる。
また、殺人の数も年々減少傾向にあるとは言え、まだまだ無くならない。
私が生まれる前などは、今の5倍以上の件数があったのか!
殺人者の気持ちは、正確には理解できないが、学業不振を理由に命を絶つような人達と、どことなく類似性を感じずにはいられない。
最近発生した事件で印象的なのは、アイドルがファンに刺された事件です。
被害者の女性は2週間経過して、意識を取り戻したそうだが、後遺症を含めてどの程度、今までと同じように生きていけるのかは分からない。
犯人は女性に対して、強い恨みを持っていた。
しかし、明らかになる情報のどれを見ても、理不尽で何一つ納得が出来なかった。
また犯人のものと思われるTwitterアカウントを覗き、つぶやきをチェックして見たが、簡単に言うと、独りよがり・自分勝手に過ぎる印象を持った。
社会に対してだか、自分の現状に対してだか分からないが、強い不満をTwitter上で展開していた。
また、その不満に対して、前向きに行動をしてより良い状況にしようなどとは、微塵も考えていなかった。
そこにあるのは、どこに向かって怒りを発散するかだけ。
全ての責任は「自分以外」にあるかのように捉え、誰であっても、己の怒りをぶつけられて当然とさえ考えているようだった。
こういう人を見ると「命の大切さ」なんて言葉は、実にチープというか無力に感じる。
そんな当然の理屈は通用しない人物が、人を傷つけるのだから。
当たり前の基準は個人さがあるので、幼い子供の中には「命の大切さ」について考えることで、新たな発見をする子もいるだろう。
でも私が知るかぎり、ほとんどの子供は言われなくても分かってる。
命は大切です。人の命も奪ってはいけません。
皆わかってる。
作文で賞を取るような子供は、直近の印象的な出来事で心を痛めたり、感動したりして、命の大切さについて学んだかのように書くが、そうやって感動出来たり、しっかりと自分の意見を書けるような子は、もう良い。心配ない。
発狂することもないだろうし、むやみに、この世からさよならもしないんだから。
そういう、もう平気な子を評価したところで、何か変わるだろうか。
全然どーしょうもないクズやろうが、必死の想いで1行書いた。
賞を取るような優秀な作文に比べて、何も伝わってこない駄文だけど、前まで何にも書けなかったそいつがたった1行だけど書いた。そこを評価してやれよ。
賞を上げる必要なんてもちろんないけど、親か教師かが一言、そいつの成長を認めてくれれば、そいつは救われる。
学業不振で死んでいった連中だって、点数には結びつかなかったけれど、努力してできるようになった部分が絶対にあったはずだ。
そういう奴等の、見えにくい前進を認めてやらない限り、「命の大切さ」なんて言葉を謳うことは、ちゃんちゃらおかしいし、命の大切さは世の中に、しっかりと浸透していかない。
ふふふ。書くことなんか無いと思っていたが「気合」を入れれば書けるものだ。「命の大切さ作文」の書き方を教えましょう。最後は気合です。